1977年10月26日、ロベール・ランクスが、フォブール・サントノレ225番地のカーブ・コゼットがあった場所に、チョコレートのみを扱う専門店「ラ・メゾン・デュ・ショコラ(LA MAISON DU CHOCOLAT)」をオープン。
ラ・メゾン・デュ・ショコラ(LA MAISON DU CHOCOLAT)は、フランス・パリの高級チョコレートブランド。
ニュアンス豊かな味わい、最初のひと口から溶けてなくなる最後の瞬間まで、見事な味わいのバランスが口の中に広がる配合の妙、豊かに引き出されるカカオの香りを特徴とするチョコレートを手がけている。
チョコレートのガナッシュやプラリネ、トリュフなどを詰め合わせたアソートをはじめ、いたチョコレートやフリアンディーズ(小菓子)、焼き菓子、アイスなども展開している。
1929年9月17日、ラ・メゾン・デュ・ショコラの創始者、ロベール・ランクスがバイヨンヌに生まれる。 バイヨンヌでパティシエになる道を選んだのは18歳の時である。
1950年代、ロベール・ランクスはスイスのCOBA(バーゼル国際チョコレート学校)で職業訓練を受けながらチョコレート作りの技を磨く。その後、パリのレストランで2年間見習い修行をする。
28歳の時、ロベール・ランクスはパリのワグラム通り121番地にあったパティスリー゠コンフィズリー「ラ・マルキーズ・ド・プレール」を買い取り、パリに初めての自分の店を開く。彼はこの店をデリカショップとしてスタートさせ、以後二十数年間、店の経営を続けたのち、ガストン・ルノートルに売却。20年が経過し、ロベール・ランクスは「チョコレート本来の気品を余すところなく伝える」という自分の夢の実現へ向けて一歩を踏み出す。
1977年10月26日、48歳の時、「ラ・メゾン・デュ・ショコラ」を創立。フォブール・サントノレ225番地のカーブ・コゼットがあった場所で、サル・プレイエルの向かいに、チョコレートのみを扱う専門店をオープンする。
1978年、哲学者のジャン゠ポール・アロンから「ガナッシュの魔術師」という異名を贈られたロベール・ランクスは、モダンなチョコレートを考案し、繊細な風味付けをしたガナッシュを創り出す。ロベール・ランクスが常に探究し続けた絶妙なバランスは、ラ・メゾン・デュ・ショコラというブランドの味のあかしとなる。ロベール・ランクスは早くも1978年からさまざまなフルーツ風味のガナッシュを作り始め(チョコレートと生クリームを混ぜ合せるテクニックはロベール・ランクスのお気に入りで、チョコレートと繊細で自然な香りとが数々の絶妙な組合せを生んだ)、その中からフランボワーズの果肉で風味付けした名作ガナッシュ「サルバドール」、フレッシュなレモンピールを使ったガナッシュ「アンダルシア」が生まれた。
この時、ロベール・ランクスはこのような言葉を残している──「私は生まれながらの完璧主義者ですが、それは才能ではなくチャンスなのです」
1981年、クロード・ルベイ、ニコラ・ドゥ・ラボディ、ジャン゠ポール・アロン、ほか2人のチョコレート通が旗振り役となって「クラブ・デ・クロクール・ドゥ・ショコラ(Club des Croqueurs de Chocolat)」が作られた。5人は食後のデザートに全員揃ってロベール・ランクスの「プレイエル」(アーモンドの風味豊かなガトーショコラ)を選んだことからクラブ設立を思い付いた。
1986年、フランソワプルミエ通りにラ・メゾン・デュ・ショコラの二号店がオープン、続いて1988年にはマドレーヌ通りに三号店がオープンする。
1990年、ラ・メゾン・デュ・ショコラは大西洋の対岸に進出。10月1日、ニューヨークのマディソン街と5番街の間の73番通りに海外一号店をオープンする。以後、新しい国への進出は常に新たな出会いをもたらす一方、洗練されたフランスのチョコレートと熟練技が文化的に理解されるかどうかが試されることになる。同年、ロベール・ランクスは最初の著書を出版。また、エクレール ショコラを初めて世に送り出す。
1994年、パリで第1回サロン・デュ・ショコラが開催。ロベール・ランクスは当初から「メンター」ショコラティエとして、サロン創設者のシルヴィー・ドゥースとフランソワ・ジャンテを支え、クチュリエのジャン゠ルイ・シェレルと協力して初のチョコレート製ドレスを製作する。
1997年、ラ・メゾン・デュ・ショコラ創立20周年を記念し、「イニシアッション」を創作。
1998年11月1日、ラ・メゾン・デュ・ショコラが表参道に東京第一号店をオープン。
2000年、ラ・メゾン・デュ・ショコラがコルベール委員会のメンバーとなり、熟練技の継承者・伝承者でありつつそのクリエーションによって絶えず革新を続けるフランス流「アール・ド・ヴィーヴル(生活美学)」を象徴する由緒ある老舗ブランドの仲間入りを果たす。同年、ロベール・ランクスは2冊目の著書を出版、その中で定番レシピを披露する。ロベール・ランクスが奨めているのは、グラン・クリュのチョコレートと斬新な風味を組み合せることである。
──「ショコラティエは職人芸です。チョコレートはすべて手作りですが、実際のところは心で作られているのです」ロベール・ランクス。
また、1996年にメゾンに加わったニコラ・クロワゾーに豊かな芸術的才能を見い出したロベール・ランクスは、彼を新しいアトリエのデコレーション部門の責任者に任命する。
2003年10月10日、ラ・メゾン・デュ・ショコラはロンドンのピカデリー通りにブティックをオープン。百貨店のハロッズとセルフリッジズもこれに続き、数年後にラ・メゾン・デュ・ショコラのブティックをオープンする。
2006年、有名な「ガナッシュ入りマカロン」のコレクションを発表。5つの風味はいずれもガナッシュをベースにしており、プレーン、フランボワーズ、バニラ、コーヒー、キャラメルの各風味のチョコレートガナッシュで構成されている。ラ・メゾン・デュ・ショコラのブティックが新しいコンセプトに基づいて装いを新たにした。
2007年、サル・プレイエルで開かれた豪華なソワレでラ・メゾン・デュ・ショコラ創立30周年を祝ったロベール・ランクスは、それまでの彼の業績に対してレジオン・ドヌール勲章を贈られる。同年、ニコラ・クロワゾーが非常に貴重な称号であるM.O.F.(フランス国家最優秀職人章)ショコラティエ部門を受賞する。
2008年6月25日、中国・東南アジア地域初のブティックをオープン。フランスの高級チョコレートブランドとして初めて香港のショッピングモール「パシフィック・プレイス」に出店する。毎年少なくとも一店舗の新規オープンという積極的な進出方針により、ブランドの浸透を後押しする。
2009年、ラ・メゾン・デュ・ショコラが初めて空港へも進出。ロワシー゠シャルル・ド・ゴール空港のターミナル2Eに空港第一号店をオープンする。このトラベルリテールへの進出により、ブランドは広く海外で認知されることになる。
2011年のサロン・デュ・ショコラと業界がロベール・ランクスのこれまでの功績にオマージュを捧げる。サロン・デュ・ショコラではランクスの同僚や同業者のほか、これまでにランクス本人やランクスのチョコレートに対する理想、さらにランクスの作品と何らかの関わりを持ったすべての人たちが発言しており、ランクスの影響の大きさをうかがい知ることができる。ジャン=ポール・エヴァン、クリスティアン・コンスタン、ピエール・エルメ、パトリック・ロジェ、ピエール・マルコリーニ、アラン・パッサール、ミシェル・トロワグロ、ジュリー・アンドリュー、イレーヌ・フラン、ジャンヌ・モロー、メゾン・ベルナション、その他たくさんの人々が、ランクスに暖かい言葉を贈り、ちょっとしたエピソードを披露し、ランクスの才能とプロフェッショナルとしての確かな手腕を褒め讃える言葉を口にした。
2012年、ジョフロワ・ダングルジャンがニコラ・クロワゾーをラ・メゾン・デュ・ショコラのシェフに任命する。ニコラ・クロワゾーはブランドの味を一手に任され、創作への情熱と熟練の職人技を発揮して築き上げられたロベール・ランクスの偉業を受け継ぐことになる。「私はチョコレートのバランスを巧みに操る術をロベール・ランクスから受け継ぎ、完璧に心得ています。私が作っているのは、今ならたぶんロベール・ランクスはこんなふうに作るだろうと思われるようなチョコレートです。
私はロベール・ランクスが創り上げたもの、味わいやブレンドに対する彼の哲学、彼一流のバランスを引き継いでいくことが自分の責任だと思っています」と、ニコラ・クロワゾーは語った。
創立35周年にあたり、ラ・メゾン・デュ・ショコラはアトリエ・アパックスに全ておまかせで、何か記念になるようなことをしてほしいと依頼する。
アトリエ・アパックスは、ラ・メゾン・デュ・ショコラのパッケージやラッピングペーパーなどのリサイクル素材を使い、一点物のアートピースをオーダーメイドで作成。メゾンのパッケージに新しい命を吹き込んだ。
2013年、百貨店のプランタンがパリで3か月にわたり、ラ・メゾン・デュ・ショコラの商品をテイスティングできるスペースを提供、これを受けてラ・メゾン・デュ・ショコラは夏の間、オスマン通りのプランタンの中心にあるアトリウムにポップアップストアを出店。ラグジュアリー感を演出しつつブランドの装いに大胆に手を加えることをプランタンに認めたことで、同スペースは注目を集めることになる。
サロン・デュ・ショコラが、ラ・メゾン・デュ・ショコラを代表するニコラ・クロワゾーに対し、その仕事を讃える「賞」を贈る。
11月17日、高級ブランドが最もたくさん集まるモールとされるドバイ・モールに、ラ・メゾン・デュ・ショコラが最大のテイスティング・スペースを持つアラブ首長国連邦第一号店をオープン。中東におけるドバイは、集客力の点でヨーロッパにおけるパリにも匹敵する。これを皮切りに中東への販売拠点の展開が続き、2014年6月にはクウェート市にもブティックがオープンする。
2014年6月12日、中東に販売拠点を展開する中でラ・メゾン・デュ・ショコラは、クウェートのジ・アベニューズ・モールに同国第一号店をオープンする。
創刊15周年を迎えるヴォーグ・ジャパン誌から、日本とファッションのイメージをチョコレートで表現した特別な作品を作ってほしいとニコラ・クロワゾーに依頼がある。彼はこの依頼を受けて、全体を金箔で覆って細工を施した、唯一無二の作品である舞扇を創作する。
同年12月11日、ロベール・ランクスがバイヨンヌの自宅で息を引き取る。ランクスは第一線を退いた後、2012年初めから妻のジゼルとバイヨンヌの自宅で暮らしていた。享年85歳。「私たちは、父であると同時に大切な友人でもある人を失いました。彼の大きな足跡は、フランスだけでなく世界のチョコレート業界に残ることでしょう。彼が私たちに伝えてくれたのは、良いものを妥協せずに追求すること、味わいのバランス、テイスティングの技術、そして自分の技術を共有することでした」と業界全体が深い哀悼の意を表明する。
2015年2月1日、ラ・メゾン・デュ・ショコラはソウルの新世界百貨店に韓国初のブティックをオープンする。
また、同年初めに新しいインターネットサイトをオープン、グローバルブランドとしてのサービスやeコマース、広報活動を提供する一方で、配送方法も幅広く用意し、オンラインで注文してフランソワプルミエ通りのブティックで受け取るといったサービスも利用可能になっている。
百貨店のプランタンは、150回目の「春」(150周年)を迎えるのに合わせてアトリウムにラ・メゾン・デュ・ショコラを迎えた。アトリウムはカラフルで賑やかなお祝いの雰囲気に包まれた。
2018年、シュウ ウエムラとコラボレーション。