映画『カツベン!』を手がけた周防正行監督にインタビュー。サイレント映画時代に、スクリーンの横で映画を解説する“活動弁士”に焦点を当てた『カツベン!』をはじめ、緻密な取材に基づいて作られ社会的に大きな反響を呼んだ『それでもボクはやってない』『Shall we ダンス?』といった作品にふれながら、活動弁士が日本映画に与えた影響についてや、アイディアの源泉、制作の背景、“映画の魅力”について、話を聞いた。
映画『カツベン!』はサイレント映画の時代に日本で活躍した「活動弁士」を題材にしていますね。
今回初めて自分の脚本ではなく、助監督をしてくれていた片島さんが書いた脚本で映画を作ったのですが、シナリオを読んで、「サイレント映画ってそういうことだったのか!」という驚きがまずありました。「“サイレント映画”の時代に無音で映画を見ていた人なんていなかった」という当たり前の事実に改めて気が付いたのです。
“サイレント映画”と言いつつ、人々は完全に無音な環境で映画を見ていたわけではなかった。
そうです。僕自身は学生時代にサイレント映画をよく見ていたのですが、サイレントで見るのが正しいと思い込んでいました。むしろ、「サイレント映画なのだから、余計な音があってはまずいだろう」と考えていました。
でも日本ではスクリーンの横に立って、映画を解説する「活動弁士」という存在が映画の上映につきものだった。日本だけではなく、ヨーロッパやアメリカだって、活動弁士はいなくとも上映する時に音楽は流れていた。だから全くの無音で見ていた人なんていない。僕の見方は邪道だったと気づきました。
サイレント映画を上映する時は、日本では活動弁士、ヨーロッパやアメリカでは音楽が付けられていたのですね。
日本では語り芸の伝統の影響もあって、「活動弁士」という独特の上映スタイルが生まれ、定着したのです。面白い国ですよね、日本って。だって、監督が作った映画に、知らないどこかの活動弁士が勝手に色々な説明をつけて上映したんですよ。しかも、活動弁士は映画を見て自分で台本を書くので、活動弁士によってそれぞれ異なる説明が付けられていたのです。それを当たり前の状況として、当時の映画監督は受け入れていた。
映画監督として、なぜこんな当たり前のことを今まで考えたことが無かったのだろう、と思いました。
映画の最終的な筋書きを決めるのは、映画監督ではなく活動弁士だったのですね。
溝口健二監督(※1)も、小津安二郎監督(※2)も、どんな映画監督でも撮影したら仕上げはそれぞれの映画館にいる活動弁士におまかせだったのです。そんな状況に対して、“当時の彼らはどんな思いを抱いていたのだろう?“と思って、小津安二郎監督の無声映画を改めて見返してみると、少なくとも『大人の見る繪本 生れてはみたけれど』とか『浮草物語』は、「どこで活動弁士がしゃべるんだ?」というくらい完成度が高い。活動弁士の語りを否定するかのように、何の不満もなく無音で見ることができるのです。
※1 溝口健二…日本の映画監督で、「長回し」を用いた撮影が特徴的。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォーなど、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)など。
※2 小津安二郎…溝口健二、黒澤明と並び国際的に最も支持されている日本の映画監督。「小津調」と称される、独特の映像世界で映画を制作。代表作は、家族の在り方を問う『東京物語』(1953年)。
小津安二郎監督はなぜそのような撮り方をしたのだと思いますか。
ここからは仮説ですが、小津監督はある程度活動弁士が説明するのも仕方ないと思って撮っていたとは思います。先日、小津監督の『出来ごころ』という作品を活動弁士つきで見たのですが、活動弁士の力によって何倍も面白く見ることができましたから。
だけど、後年、小津監督は「説明なんて下衆だ」と発言している。当初は、トーキー(※)における説明的なセリフや芝居、物語が下衆だ、ということを言っているのだと思っていたのですが、もしかしたら「活動弁士の説明は下衆だ」という意味もあったのかなと。そう考えると、完璧な無声映画を目指して、活動弁士の語りを入れられないような映画を目指して作っていたのではないか、と思います。活動弁士を反面教師にして、自身のスタイルを磨いていったのではないか、と。
※トーキー…音声の出る映画。発声映画。現在の上映方式。音声はフィルムのへりのサウンドトラックに録音され、映像と同時に再生される。
活動弁士の存在を意識することで自分のスタイルを確立していった、ということですね。
そうですね。面白いことに、溝口監督は小津監督とはまた違う影響の受け方が見て取れます。というのも、溝口監督がキャリアの中で様々なスタイルを経て、最終的に自分のものにした撮影方法は「長回し」。ワンシーン、場合によってはツーシーンをワンカットで撮り続ける方法です。
でも、その「長回し」って、初期活動写真の最もオーソドックスなスタイルなのです。活動弁士の説明があれば、カット割りしなくても観客はどこを見ればいいのかわかるから。だから、溝口監督は実は活動写真の原点に戻っていた、ということになりますよね。
つまり、「活動弁士」の存在が日本映画のその後のスタイルに影響を与えた、といえるのでしょうか。
「活動弁士」の存在によって、日本独自のスタイルを発展させていくことができたのではないか、と思っています。ヨーロッパやアメリカの監督とは違って、日本の監督はトーキーが始まる前から、生の声の台詞を聞くことに慣れていた。役者ではなく活動弁士の声ではあるけれども、聞こえる“台詞”を意識せざるを得なかったからです。
ちなみに、黒澤明監督(※)は、お兄さんがとても優秀な活動弁士で、小さい頃から活動弁士付きの無声映画を見ている。ご自身はサイレント映画を撮っていないけれども、黒澤監督さんの中にも活動弁士の影響は色濃く出ているはずですよ。
※黒澤明…「世界のクロサワ」と称される、国内外の映画人に影響を与えた日本の映画監督。ダイナミックな映像表現で、娯楽性・芸術性に富んだ作品を生み出した。代表作は、ベネチア国際映画祭金獅子賞、第24回アカデミー賞特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞した『羅生門』(1950年)。
「活動弁士」はサイレント映画時代の日本に広く浸透し、受け入れられていた存在だったのですね。
はい。でも実は、今まで活動弁士は映画史の中で否定的に語られることが多かったのです。
なぜかというと、結局は活動弁士が面白く説明してくれるから、極論を言えばずっと引きで撮っていてもOK。だから日本の撮影技術が進歩しなかった、と言う主張が存在していたのです。実際に、欧米ではカット割りをはじめとする様々な撮影テクニックを駆使して、画と字幕だけで物語を伝える努力をしていたわけですから。
その流れを汲んで活動弁士を排除しようとした動きが、大正時代に起こった「純映画劇運動」です。「純映画劇運動」では、女形で男性が女性役を演じるのを廃し、女優を起用する主張なども同時になされました。女優は誕生しましたが、運動は大きな広がりを見せずに終わります。
なぜですか?
大衆が活動弁士付きの映画上映を支持したからです。日本人は、「写真が動く!」という映像文化の始まりを“語り”とともに受け入れたから、「映画」と「活動弁士」がセットで根付いていたんですよ。
ただ、「純映画劇運動」自体は終わっても、それぞれの映画監督に思うところはあったのだと思います。事実、日本映画にもその後いろいろな手法が生まれていきました。なおかつ、サイレントからトーキーに移り変わっていきますが、日本の監督はサイレントの時代から“声の台詞”に馴染んでいた、いわばトーキーへのヒントがあったのです。