ミューラル(MURRAL)の2025年春夏コレクションが、2024年9月7日(土)、東京のポーラ 青山ビルディングにて発表された。
ミューラルにとって花とは、毎シーズンのコレクションの思いを仮託するものであり続けてきた。人々を魅惑し、そこに花言葉と呼ばれる象徴的な意味合いをも孕んでしまう、花。それが美しさゆえであるとするならば、花とはなぜ美しいのか──今季のミューラルの起点には、こうした問いかけがあった。
花の美しさを掘りさげる導きの糸となったのが、ドイツの植物学者・写真家、カール・ブロスフェルトによる植物図鑑『芸術の原型』であったという。1928年に出版された同書の写真は、この時代ゆえにモノトーン。そこに写されるのは、クローズアップされた植物のディテールだ。白黒ゆえに植物の造形が引き立つその写真は、細部が持つ優美さとともに、日ごろ見慣れないゆえの奇妙さを湛えている。この、優美と奇妙が交錯して「見える」ことに、花の美しさはあるのではないか──デザイナーの村松祐輔と関口愛弓は、こう考えたのであった。
だから、「SEEM」──「見える」とも、「思える」とも捉えてよい──と題された今季のミューラルは、エレガントでありながらも、その均整に蠢くような、ある種の奇妙さを湛えている。それはたとえば、アシンメトリックなフォルムに見て取れるだろう。ドレスやトップスは左右非対称に仕上げ、ギャザーを寄せたりドレープを孕ませたりすることで、ぴんと整った佇まいに息吹を吹きこむかのように、柔らかな動きをもたらす。
美しさが「seem(〜に見える)」であり、「be(〜である)」ではないのならば、そこには美に対する固定的な概念ではなく、むしろ美しさを捉える相対性が浮かびあがってくる。この両義性が、今季のミューラルの鍵となっているといえる。軽快なワンピースやシャツに広がる、抽象柄「のような」模様は、実はブロスフェルトの『芸術の原型』に収められた植物のモチーフからとったもの。あるいは、レザー「を思わせる」ブルゾンやベストは、サテンに加工を施すことで、光沢を引き立てたファブリックを用いている。
ところでなぜここで、美しさの両義性が浮かびあがってくるのだろう。ブロスフェルトの『芸術の原型』では、肉眼とは異なるカメラのレンズを通して、自然の姿が捉えられる。そこでは、「人間によって意識を織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである」と、20世紀ドイツの批評家ヴァルター・ベンヤミンは語っている。「微細なものに住まう形象の世界」がカメラによって拡大されることで、人間の意識で捉えられた「be(〜である)」が揺らがされるのだ。
普段の視線から離れて、よくよく目を凝らすと見えてくる、花の優美さと奇妙さ。そして、そこにあらためて驚いてみること。だから、華やかさは華やかさのままに現れるのではない。ドレスなどに用いた、ミューラルを象徴する刺繍レースは、優美な花柄をモチーフとしながらも全体を同系色でまとめ、そこに時折り、ラメ糸がきらめきを翻す。あるいは、スカートなどには、植物の有機的な曲線を、同色の刺繍で施す──今季のミューラルは、いわば、美しさの無意識を見出したのではなかっただろうか。