20世紀を代表する画家のひとり、ジョルジョ・デ・キリコ。「形而上絵画」呼ばれる静謐で幻想的な絵画を手がけたデ・キリコは、一方で西欧の伝統絵画にも強い関心を抱くなど、90歳で亡くなるまで創作を続けた。デ・キリコの代表作の数々とともに、初期から晩年までの全貌を紹介する展覧会「デ・キリコ展」が、東京都美術館にて、2024年8月29日(木)まで開催される。
デ・キリコの代名詞である形而上絵画は、広場や室内を舞台に、歪んだ遠近法や脈絡を欠いたモチーフの配置によって、幻想的な雰囲気を醸しだすものだ。日常に潜む非日常性をほのめかすこれら1910年代の作品は、シュルレアリスムの画家をはじめ、数多くの芸術家に影響を与えている。本展では、デ・キリコの形而上絵画を、「イタリア広場」や「形而上的室内」、「マヌカン」といったテーマごとに紹介している。
「イタリア広場」は、形而上絵画の誕生と深く関わる題材である。その前に、デ・キリコの足跡を少しだけたどっておこう。イタリア人の両親のもと、1888年ギリシャに生まれたデ・キリコは、母国で絵画を学んだのち、1906年ドイツ・ミュンヘンの美術学校に入学した。しかし、学業に物足りなさを感じていたであろうデ・キリコはミュンヘンを離れ、イタリアのミラノ、ついでフィレンツェに移っている。
デ・キリコが形而上絵画の着想を得たのは、1910年秋のフィレンツェのこと。広場のベンチに座っていたデ・キリコは、突然、見慣れていたはずの街の光景を初めて見るかのような感覚に陥り、脳裏に絵画の構図が浮かび上がるのを感じたという。広場を題材とした《バラ色の塔のあるイタリア広場》などは、こうした体験と結びついているといえる。
形而上絵画の表現技法は、それまでのデ・キリコ作品とはまったく異なるものである。つまり、筆致を丁寧に重ね、写実的・具象的な画面を作りだした従来の作品とは対照的に、形而上絵画では、平坦な色面にボリュームを持ったモチーフが浮かび上がり、どこか空虚な雰囲気が醸しだされる。こうしてデ・キリコは、ものごとの意味を空白にすることで生まれる感覚、澄みきった静けさが織りなす「雰囲気」を表現することを試みたのだった。
1911年、デ・キリコはフランスのパリに移っているものの、14年に第一次世界大戦が勃発すると、翌年にイタリアのフェッラーラに移り住んでいる。こうした環境の変化にともなって現れたのが、「室内」を題材とした作品である。画面は、それまでの開けた広場から閉ざされた室内へと変わり、そこには糸巻きやビスケットといった身近なモチーフが雑然と描き込まれる。それはたとえば、この時期の代表作《福音的な書物I》などに見てとることができるだろう。
デ・キリコのフェッラーラ滞在初期の作品は、戦時下における制作の困難を反映してか、その寸法は小さい。しかしその結果、外部の空間を締め出し、抽象的で閉ざされた空間のなかで、極端に歪められた遠近法、互いに異質なモチーフを緻密に同居させた配置が凝縮された画面を生みだすことになったのだった。
「マヌカン(マネキン)」は、デ・キリコ作品を特徴付けるモチーフのひとつだ。その登場は、第一次世界大戦が勃発し、激しい爆撃が行われた時期にあたる。初期の形而上絵画にしばしば描かれる大理石や石膏像が、古典的な雰囲気を湛えているのとは対照的に、表情を欠いたマヌカンは、空虚さを彷彿とさせる。戦争の残酷さの前で、人間の理性を信じることは虚しい。デ・キリコにとってマヌカンとは、理性的な意識を奪われた人間の姿であった。