映画『月と雷』が、2017年10月7日(土)よりテアトル新宿ほか全国公開される。
原作は、直木賞作家・角田光代の、2012年に出版された長編小説『月と雷』。角田作品は、登場人物の繊細な心理を描き出すリアルな物語が特徴で、世代を超えて支持を得ている。今までに、『八日目の蝉』や『紙の月』などが映像化され、大ヒットを記録した。
『月と雷』は、「親と子」「家族」「生活」の意味を根源から問いかける角田光代の真骨頂ともいえる物語だ。主人公は、幼少の時に母が家出し、“普通”の家庭を知らぬまま大人になった泰子。仕事はスーパーのレジ打ちで、家と仕事場を往復する日々を過ごしている。特別な生活を送っているわけではないが、婚約者も出来、亡くなった父が残してくれた持ち家で暮らし、生活の基盤はしっかりしている。
そんなある日、かつて半年間だけ一緒に暮らしていた父の愛人の息子・智(サトル)が突然現れる。泰子はその2人に自分の家族を壊されたと思っていた。根無し草のまま大人になった智は、ふたたび泰子の人生をかき回し始める。さらに智の母親である直子と出会い、平板な泰子の生活は立ちどころに変わっていく。
主人公の泰子役には初音映莉子、智役には高良健吾が起用された。大好きな父を亡くし、清算しきれない過去がある中、物語の中で“普通の生活”を追い求める泰子。一方で、男を渡り歩く母・直子に連れられて各地を転々としながら育ち、“普通の生活”を知らない智。
本作では、まるで漂うように生きる彼らに、千差万別の感想が芽生えるはずである。そんな彼らを演じた初音と高良は、それぞれ役にどのような想いを抱いたのだろうか。話を伺った。
泰子と智、自身の役への第一印象はいかがでしたか。
高良:素直なやつだなというのが率直な感想。あらゆるところを転々として生きる直子と共に、少し変わった人生を送ってきたのに、智はぐれもせずに育ったんだなと。だから、僕は智を嫌な奴にはしたくなかった。それを意識しながら演じようと思いました。
初音: 1人の女性の生き方として、揺れ動く気持ちがとても共感できました。人間関係のなかで何となくもどかしさを感じることは、私自身、日常で経験のあること。相手にうまく話せなかったり、本当はこれを話したいって考えていることがあるのに違うことをダラダラ話してしまったり。
それから、誰かを愛おしく感じたり、この人に愛されたいと求めたりすることも。私だけでなく、誰もが感じたことのある心情だと思います。
そんな2人の出会いは、彼らにどのような意味をもたらしたのでしょうか。
高良: 「運命」という言葉がありますけど、僕自身それは“ある”と思っています。でも、その「運命」を超えるには、おそらく自分が苦手なこととか、絶対に手をつけないことに踏み出さないといけない。
『月と雷』の中では、不幸だったり弱さだったり、今まで受け入れられなかった自分の人生の何かを、受け入れた瞬間が描かれています。小説の中で、智が現れた時に泰子の心理描写として「不幸がきた」という表現があるのですが、きっとその不幸を受け入れていくことが、彼らの「運命」を超えた瞬間。その「運命」を越えて2人が変わっていったのだと思っています。
初音:泰子と智はそれぞれ「ちゃんと生きていたいのに、なんでこうできないんだよ!」と思っていた時に再会します。それは突然で、思わぬものだったけど、きっと泰子も心のどこかで「何してるのかな」って無意識に求めていたのかもしれません。彼らの再会は、色んなエネルギーが生み出されていくきっかけだったと思います。
無意識的に求めあっていた2人のラブシーンには、特別な意味があったのでしょうか。
高良:子供の頃と同じことをしているのに、大人になった2人がやると全然違う風になってしまっただけなのかなあと。僕がとても面白いと感じるのは、『月と雷』でのラブシーンが、その変化を描いているところです。
初音:そうですよね。お互いの体が成長して、違う方向になってしまっただけで、彼らにとっては、裸で走り回ったりしていたことの延長線上なのかもしれません。男女の性欲とか、どうしてもしたいっていう感情じゃない、自然に過去へと戻った2人の時間が、このシーンだと思います。
2人が出会って芽生えた感情はどのようなものでしょうか。
初音: 智と再会する前まで、泰子は、婚約者がいて、結婚して、子供も産んで……そんな道を普通だと思って生きてきた。でも、再会して一緒に過ごすうちに自分を騙して生きてきたことを実感します。小さい頃の生き方は根付いていて、やっぱりその根っこの部分を無視して生きていけないと考え直すのです。互いに出会ったことで、自分と向き合わなければいけないと変化していったのです。
彼らが出会い、ともに過ごす中で追い求めた“普通の生活”はどのようなものだと思いますか。
高良: 2人の生き方は、客観的に見ると普通とは思えないかもしれないけど、智は自分の生活を普通だと思っている。きっと根無し草のようにしか生きられなかったのだろうから。彼にとってはそれが“普通”。
でも、智だけでなく泰子も、今の状況を良しとせず、生きることにもがいています。諦めに見えるときもあるけど決してそうじゃない。こうでしか生きられないはずなのに、もがき続ける彼らの姿を見て、愛おしいと感じました。
初音:私も高良さんと同じ意見で、彼らはこう生きることしかできないのだと思います。だから、映画の中で見える生き方そのものが、彼らにとっての“普通”なのではないでしょうか。でも、時の流れのように、成すがまま進んでいく彼らの生き方はまさに人生だなと感じます。
登場人物の不器用な人生とは、まったく異なる役者の世界にいる初音と高良。『月と雷』を通して考える、2人にとっての“普通”であることは、どのようなものなのだろうか。