人と向き合いたいと思って、作り始めた靴。プーマ(PUMA)とのコラボレーションで世界中のスニーカーフリークの心を掴んだ、そのオリジナリティ。自身のブランド「ミハラヤスヒロ(MIHARAYASUHIRO)」でパリコレで活躍し、最近ではモンクレールのカプセルコレクションにも起用された三原康裕は間違いなく現在の日本を代表するデザイナーだ。その制作の背景にある彼の哲学と、ブランドの原点となるシューズ作りについて話を伺った。
ミハラヤスヒロのファッションショーの様子
左)2014年春夏コレクション 右)2014年秋冬コレクション
東京の美大で勉強していました。芸術が好きで。
ただ、今のような参加型アートが無かった時代のアカデミックでは、作品、芸術は一人歩きしていく。例えば美術館に展示された絵や彫刻を凄いと思っても、触ることは許されない。作品は展示という部分になった時には、自分と作品に距離ができ、傍観者になるしかない。
それは僕が思っていることと違いました。僕は人と芸術を調和させたいと思っていました。
芸術がもっと日常に存在すべきだと。
美大で習ったことの反発心としての1つの糸口が、 人が使う日常的なものを作るということ。それが靴でした。靴は、履きこまれて、すり切れて、最後は壊れてしまう。そこに到達点を感じました。だから、最初は自己研究、作品作りという側面が強かったでしょうね。その時はまだ、人と向き合うといった段階ではありませんでした。
靴の学校に通っていたわけではないので、自分で靴をみたり、捨ててある靴を分解したりするうちに、形になっていきました。
当時は木型も知らなかった。人との出会いや、作っている人の下へ足を運ぶ。イギリスにも行った。職人の人からは教えてもらうというよりは、彼らの仕事を見て、行っていることを学び、模倣する。そして、これまでの靴の概念とは違う靴を作りたいという気持ちが強くなりました。
在学中にミハラヤスヒロ(MIHARAYASUHIRO)の前身となる「アーキ ドーム(Archi doom)」という靴のブランドをスタートしました。建築の”アーキテクチャー(Architecture)”と破滅的な運命という意味の”ドーム(doom)”を組み合わせて。再構築という言葉も知らなかったので、感覚的に対峙する構築と破壊という言葉をイメージしていました。
世の中が進化しても、最終的には常に自然のものは崩壊していく。どんなに人間が芸術を保存しても最後は砂のようになってしまう。
出来上がった時点で崩壊していく運命。ある種そういう”はかなさ”に似た気持ちは当時から持っていて。靴がはかれて、風化していくことに対して愛情に似た気持ちがありました。
最初は言ってしまえば、作品としての靴。一足しかなかった。オブジェのように売ったり、あげたりしていました。
ただ、そこにある概念は、根本的には美術の世界と同じですよね。例えば、お客さん、友達に誕生日に靴をプレゼントする、”あなたのためだけに作った一足”。
この概念は、まさに忌み嫌っていた芸術の哲学、セールストークになってしまう。一点モノを作っている以上は、人との調和ではない。一点ものが大量生産より優れているという考え方もあまり好きではありません。
だから量産できないことを量産していくところに、大量生産に対するアンチテーゼがあると思って。量産とはいっても10足、20足のスケール。ブランドが始まったのは、ビジネスをしたいというだけでなく、少しずつ哲学を踏まえていった結果です。
学生中に靴の工場でパートして、学んでいきました。仕事の後に職人からアドバイスをもらい、自分でサンプルを作って、機械生産にはまらない靴を目指していました。靴の工場は、生産する場。販売する場でも企画する場でもなかったから、勝手に展示会をやって怒られたり。芸術作品を美術の人にみせても同じ結果になったので、使ってもらえる場所は何処だろうと思って、自分で営業しました。
そうしているうちに、頑固さや情熱を理解して、支持してくれる人も増えてくる。セレクトショップとかで置いてもらえるようになりました。
卒業してすぐに浅草の何人かで会社を作って、店を作ろうと言う話になって。駆け出しのブランドでしたが、注目を浴びていました。
僕自身は変わった見られ方をしていました。ファッションの人にとっては、美術生でアカデミックな存在で早熟な人間。アートの人からみたら異端児で、ビジネスを始めたりして扱いにいくい存在。どっちつかずでアカデミックでもなく異端児でもない、普通の人が存在できないところに自分が居れたことが、居心地よかった。