1881年、イタリアのビエラにて創立。
セルッティはイタリアのファッションブランド。ウールのスーツが世界中で愛され、日本ではセルッティ1881のラインの中でもジャケット、紳士服系(スーツ、ジャケット、ネクタイなど)、バッグ、香水などが人気。
1981年、イタリアのビエラにて設立。当初はイタリアの綿工場だった。ウールや綿を取り扱っていたファミリー企業がイタリアのファッションブランドに変わったのは、3代目、ニノ・セルッティ(Nino Cerruti)が社長に就任したときだった。50年ニノ・セルッティは若くして亡くなった父の後を継ぐ形で、20歳にしてファミリーの企業を背負うことになった。
しかしここからセルッティの改革が始まる。ニノ・セルッティはこれまで培った高級生地の生産ノウハウを生かして、50年代半ばアパレル製品の生産に乗り出す。そして、1957年、ミラノコレクションにてメンズウェアを発表。ブランド名は「ヒットマン:Hitman」だった。
この時のセルッティが行った、自身のブランド内で製造から完成品に仕上げるまでを一貫して行うという手法は、当事のファッション業界の仕組みを考えると革命的なことだった。(当事はデザインと製造は分離していた。)
セルッティのコレクションは高級生地を使用、クラシカルかつカジュアルなテーラードスタイルで、メンズウェアのスーツの分野では一躍、トップの地位にまで登りつめた。セルッティの生地の肌触り、感触は世界を魅了した。ファッションショーの最後には決まって黄色いニットを肩にかけて出てくることで話題となった。
65年、ニノは消費者の求めるデザイン・素材に詳しいアルマーニの才能を見出してスカウト、「ヒットマン」のデザイナーとして、70年までセルッティでメンズウェアをデザインした。(バイヤー出身のアルマーニは当事ファッションデザイナーの経験がなかったためニノはある意味アルマーニのファッションにおける育ての親と言える。)
67年にブランド「セルッティ」を発表、この年、初めてのショップをパリにオープン。このとき、ファッションの最先端を、ということを考慮して経営の拠点をパリに移す。(生産の拠点はイタリアに残す)68年レディースウェアコレクションを発表。
ブランドは着実に成長し、セルッティはより求めやすいラインの「Cerruti 1881」、高級ラインの「Cerruti Arte」 、 ジーンズラインの「Cerruti Jeans」、メンズコレクションの「the Cerruti Brothers」その他、香水、アクセサリーラインを展開した。その後、ブランドを再編、現在はセルッティ1881の中にグレイライン(高級)、コバルト(セカンドライン)、オレンジ(スポーティ)のレーベルがある。
ニノ・セルッティは映画の衣装協力も積極的におこない、「プリティウーマン」「イーストウィックの魔女たち」「フィラデルフィア」などでセルッティのデザインした服が使用された。
96年から数年間デザインディレクターとしてナルシソ ロドリゲスが在籍した。
2000年10月にグローバルでの事業拡大を目的とした資金調達のためイタリアのFin.partに株式の51%を売却(ブランドはFin.partに買収されるかたちになる)した。その後、ニノセルッティはブランドの方針をめぐって対立し、残りの株式を売却せざるを得ない状況に陥る。2002年S/Sコレクションにてニノ・セルッティは自身が50年に渡って築き上げたブランドを去り、こうしてセルッティ一族からブランドは完全に離れる形となった。
その後の数年間はコロンビア出身のDavid Cardona、バーバリーでデザイナーをしていたロベルト・メニケッティ、ダナ キャランでキャリアを積んだIstvan Francerがデザイナーを担当するが、定着しないままデザイナーの交代が繰り返される。
2005年、Fin.partが破産。2006年にセルッティ(Cerruti)をプライベート投資ファンドのMatlinPattersonに売却される。この時の売却金額は明らかにされていない。CEOにセルッティで弁護士を担当していた、Philippe Cleachが就任。
2006年、MatlinPattersonはクリエイティブディレクターとしてディオール オムでキャリアを積んだニコラ アンドレア タラリスを指名、しかし1年後の2007年に辞任。新デザイナーにはジャン ポール ノットが就任した。
2009年、リチャード ニコルがレディースのディレクターに就任。2012年、新アーティスティック ディレクターにアルド・マリア・カミッロ(Aldo Maria Camillo)が就任。